《天使たちに守られる墓の中のキリスト》 ウィリアム・ブレイク 1805年頃
通常の年初のご挨拶は欠礼させていただくこととなった、2012年です。(って、既に松の内を過ぎてるじゃん;) 一般家庭の行事的なものとは今、無縁ですから、普段と変わらないはずが、とにもかくにも「連休」ということでちょっと変則的な日々となってました。
ですが一日一日が積み重なり、刻んで、続いていくのが時の流れですね。 カレンダーが2012年になったからといって、そこで突発的に何かがどうというのではなく。
8月に渡仏したことで、結果的に私の魂の経歴へのヒントがもたらされました。 それが機縁となり、次に仏文学者の渡辺一夫氏の著作と出会いました。 そして、渡辺氏とつながる大江健三郎氏のエッセイを3日前から読んでいます。 ノーベル賞を受賞した大江さんの名前は知っていても、まだこれまで一冊も読んだことのなかったのが、ここにきてようやく機が熟したのかもしれません。
大江さんのエッセイからは、こちらの言葉(詩)と出会うことができました。
And what the dead had no speech for, when living.
They can tell you, being dead: the communication
Of the dead is tongued with fire beyond the language of living.
正確ではないし、何より拙くて、ヤになりますな(ノ_-。) 詩なのだから、もっとリズムを整えられるといいのに・・ でも一応、私の言葉として添えておきます。
そして逝った者たちは、生きている時には言うことのなかった言葉を.
命無き今、語ることができる 死者の言葉の、その伝達は
生者の言語を超越した 炎の舌でもって 為される
そのお人は死んでしまった、もう既にこの世にはいない、そういう状態だからこそ、受け取るメッセージというものが確かにありますね。 そしてそれは「コミュニケーション」であって、一方通行ではない。 魂の交わり、その両方向の疎通だとエリオットは言っています。
安寧の場にいる魂は眠りについていて、そんな動的なことはしないのかもしれません。 また留まっている魂にしても、その留まる理由に集中していて、他者とのコミュニケーションは難しいかもしれません。 それでも自分の経験として、伝達を受け取ったという確信をこれまで何度もしたことがあります。
可能ならば生死の境界線は関係なしに、コミュニケーションがとれるのが最良だとは思います。 でも人という存在は命ある状態と無い状態と、必ずどちらかであって、その両方を保持することはできません。 命が尽きること、それは大きな大きな変化です。 変化する前とした後と、死の瞬間を経てなお同じままということはあり得ません。 どうしたって「どちらか」となってしまう定めなんですよね。
それでもコミュニケーションという交わり、そのえにし≪縁≫は続いていく、断ち切られるわけではないというのは一つの希望だなと、改めて感じます。 自分はそのことを知っていたけれど、この詩の言葉により、よりはっきりと明瞭になりました....
大江さんは、画家であり詩人のブレイクについてもページを割いています。 私はブレイクの絵はこれまでに観たことがあって、「好き」の部類に完全に入りますから、絵を媒体にしてならブレイクの世界に浸ったことがあるもんねと、とりあえず言ってしまいましょうw でも文学者の大江さんにとっては、まずブレイクの詩との結び付きありきで(そりゃ、当然も当然なんですけど)、自分との“切り口の方向性”の違いに愉快な気持ちになりました(*^^*)
それから。 このエッセイは大江さんの読書体験についてのものなんですが、出されている名前や作品名の多くが“自分との関わり”もあるもので、驚きました。
大江さんは高校生の時に渡辺さんの本と出会い、渡辺さんを師としたいと希望して、その大学へ進学したというお人です。 私も渡辺さんの著述の所々に惹かれもするし、共感もするということは渡辺さんと似たような感性(傾向)があるということでしょうね。 同じ人物(渡辺さん)を慕う気持ちを持つもの同士、大江さんと私の感性ポイントが似ていても不思議ではない。 ただそれにしても、この重なる点の多さは・・ こういう風に驚くことなんて、ここ10年はなかったような。(←いや、単にそれだけ新たな本や作家さんを開拓していなかっただけ、だってば;)
とはいっても、エッセイ本を1冊読んだぐらいで大江さんを知ったとは到底言えません。 それにこの小さな情報量のなかで既に、大江さんと自分の相違点もたくさんありそうだとも思ってます。 ま、大江文学との付き合いはこれからぼちぼち・・ということで☆
このエッセイにある“自分との関わりもあるもの”の一つがブレイクであり、↑の詩の作者T.S.エリオットであります。 それからダンテの「神曲」も取り上げていました。 ダンテも、私のなかにインプットされている一かけらです。
大江さんはこのエッセイ中ではダンテとT.S.エリオットのつながりについては一切言及されていません。 ですが図書館から借りてきた本によると、詩にある「tongued with fire 」は「神曲」に散見される言葉と符号しているそうです。
最初にこの言葉(詩)を読んだ時、なぜ「炎」の舌なんだろ?とそこは腑に落ちなかったんです。 ですが「神曲」にこの表現があり、それを踏まえてのT.S.エリオットの言葉なのだと知って、内容的には「?」のままでも納得できました。
上記の詩は「FOUR QUARTETS (四つの四重奏曲)」というとても長い詩のなかのほんの一部です。 「四」は4つのエレメンツ≪火・風・地・水≫に対応していて、この作品は4つの篇で構成されており、上に挙げた部分は「火」の篇(「LITTLE GIDDING」)に含まれています。 fireですから、ドンピシャ「火」ですねー
ダンテやT.S.エリオットの詩の世界とは全く別に、私のイマジネーションによる理屈としては、炎とは一種のエネルギーを比喩している意味合いもあるとか?と考えました。 現実の肉体を維持するためには適当な暖かさ・体温が必要で、そのために食事をしてカロリーを摂り、熱・エネルギーに変えてますね。 火というものもエネルギー源の一つです。 火自体も暖かく(熱く)、他のものを熱します。 炎の舌というならば、抽象的な意味での「温かみ」だったり、「交わろうとする熱意みたいなもの」を連想させてくるような? ただし火や炎という語はちょっと強いというか、諸刃でもありますよね。 火→燃やす→消失や破壊→例えば武器といった具合にネガな連想も有り、ですから。 なのでこの語が選ばれた意図をまだ汲み取れないでいます。 詩全体を通読したら、わかるかも?と淡く期待しつつ・・ (エッセイにはこの一部分だけが出ているのです。)
最後になってしまいましたが、エッセイにある西脇順三郎氏という詩人が訳されたものと図書館の本の森山康夫氏の訳をお伝えします。
また死んだ人たちが生きている時に
言葉で言わなかったものを
死んだ時に人に言うことができる。
死んだ人たちの伝達は 生きている
人たちの言語を越えて火をもって
表明されるのだ。
そして死者は、生前口にしなかった事を
土に帰った今語ることができる。死者は
生きた人間の言語を超えた炎の舌で語り掛ける。
14世紀のダンテ、19世紀のブレイク、20世紀のT.S.エリオット。 さすがにダンテは私にとっても「神曲」の人という位置づけですが軽くしか読んだことがないし、ブレイクの詩は未知の世界。 T.S.エリオットもミュージカル「Cats」の原作者として認識してるだけという細~い線でした。
ただし絵画美術でも「神曲」にインスパイアされて作られたものは幾つもあり、その別ルートのつながりも少しはありました。 そういやブレイクも「神曲」の挿絵を描いていましたね。 そして「Cats」はこれまた大好きなミュージカルで日本とロンドン、NYと計何回観たっけな??
気合を入れて、これらのつながりの内容を明確にしていこう、意味探しをしていこうという気持ちはさらさらありませんw ここまでこうやって記事にまとめることができて、満足しちゃいました。 あとは今後ご縁があれば更に掘り下げていくことになるだろうし、先の楽しみの種を手に入れたということで新年の幸先としては上々です♪
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